突然ですが、私は、精神科に通いながら、主治医や、入院病棟先の看護師さんなどに、自分が安楽死希望者であることを兼ね兼ね伝えています。
今日11月30日は、「いい看取り」の日だそうで。
私が通院及び入院生活の中で安楽死の希望を訴え続けていること、その感触と意義について、ここに記し残しておこうと思います。
まず、前提として、私を受け持っている主治医は、とても優しく、患者を思いやってくれる方の「良い」精神科医だと思っています。
安楽死したい旨、緩和ケアと繋がりたい旨をはじめて伝えたときも、否定せず、説教せずに、
「一般的ではないけど、苦しんでる人がいるということで、緩和ケアに連絡してみるね。」
と言ってくれた先生です。
残念ながら、やはり精神疾患のみの患者を受け入れることは不可能なのか…未だ緩和ケアとは連絡が取れていない状況ですが、私は、この日本で、患者が安楽死の希望を主治医や周辺の医療従事者、またソーシャルワーカーなどに、伝えておくという事自体に、意義があると思っています。
それは、この国に、当事者からの「安楽死の需要がある」ということを伝えるということです。
もちろん、医者や看護師によっては、その旨を伝えることで、自分が傷つくことを言われる恐れもありますし、伝え方によっては、不要な薬を増やされてしまったりするかもしれないので、単に「安楽死希望者はとにかく医療関係者に意思表示すればよいのだ!」とは言えません。
実際、私が安楽死したいということを口にしたとき、生きることこそ意味があるというような、役にも癒やしにもならない常套句を強い口調で言われ、少々バトルになった看護師もいました。(けれどその方も、私がどれだけ長い間死にたい気持ちを抱えてるのか、限界なのか、を伝え続けたら、最終的には優しく寄り添ってくれました。)
安楽死の希望を他者に伝える事においては、どんな伝え方が一番良いのか、自分や、自分と関わってくれる人の性質により様々でしょう。
なので一般化できる伝え方というのをここで示すことはできませんが、伝えることの意義深さという意味では、医療関係者に自分の意志を伝えてきた人間として個人的に感じているところです。(そう思いたいだけと言われればそれまでですが。)
ちなみに一例として…
私が主治医に念を押して最初に言ったのは
「身体と同じように精神にも寿命がある。
その寿命がとっくに尽きているのに、延命チューブに繋がれている気分です。」
ということでした。
また、何年も死にたい気持ちが常にあって、衝動的なものではないことも、伝えました。
安楽死の話をするということは、今受け持ってくれている主治医や医療関係者が自分に合っているかどうかの試金石にもなると感じています。
日本で安楽死はまだ認められていません。
けれどもいつかその時がきたら、あの時ああ言ってたよねと、安楽死希望の旨を予め伝えておけば、話もスムーズに進むと思うのです。
安楽死が無理でも緩和ケアがあります。
こちらも保険適用の範囲などを考慮するとまだまだハードルが高い分野ではありますが、何も伝えてこないよりは、予め自分の思いを伝えておいたほうが、いざというとき、自分の意志に反する延命や治療を避けてもらえるかもしれない。
それも、ささやかではあるかもしれませんが、ひとつの安心材料になると思いますし、今後、日本でも医師会などで安楽死の議論が持ち上がったり、合法化への後押しになると思うのです。
私たちひとりひとりは微力ですが、無力ではないです。
そう信じています。
MN
Hozzászólások